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利休は、なぜ秀吉に切腹を命じられたのだろうか。
よく言われているのは、こうだ。
利休のわび茶と秀吉の派手な田舎趣味の対立の果てに起こった、と。
茶会で、利休は青い足袋をはき、秀吉は赤の金刺繍入りの足袋をはいていた、とか、「金の茶室」を金にあかせて作ったとか、こんな話はあなたも聞いたことがあるだろう。
しかし私はそう思わない。
秀吉は利休の才能を理解する能力を十分持っており、利休も秀吉を理解していた。
それだけではなく、秀吉ほど利休を愛した男はいないと、私は思っている。
さまざまな厚遇を与えるだけでなく、宮中での茶会に利休が参内できるように、官位をもらったりしている。
つまり、それは、共に茶会ができるようにするためではないか。
いくつもの茶会を、利休と共に行っている。利休にやらせ、自分が楽しむというのではなく、一緒にやることを楽しんでいたのではないか。
最後の決裂は、二人の魂の違いに起因する。
秀吉は「愛智」(献身的傾聴+評価的傾聴)の魂であり、根本的には人に興味があり、利休を深く愛していた。
一方、利休は「智愛」((評価的傾聴+献身的傾聴)の男であり、秀吉を好んではいたが、究極は真理を愛してしまった。
そして、寺の山門に自分の立像を置き、秀吉がその下をくぐるようにまでしてしまった。何かミケランジェロや信長の晩年のオゴリをほうふつさせる。
結局、二人は深い人間関係を結んでいたが、究極は、秀吉が利休という人間を愛し、利休は、真理を愛してしまったのではないか。
「これほどまでに利休を愛し、様々なことをしてやったのに、利休は、根本のところで私ではなく、「真理」を選択してしまった。」
そんなふうに、秀吉は思ったのではないか。
深く愛したがゆえに、許せなかった。
ここに愛と智という魂の違いが、天命に関わる究極の対立を作ってしまった!
秀吉の天命動詞は何だろうか? 「尽くす」ことではないか。天下を統一するというとてつもなく大きな愛とそれと同時に、個人を愛する小さな愛。
利休の天命動詞は、美を「極める」ではなかったか。
一人の男が美を求める男に尽くしてしまった。そして、尽くされた男は、その心に報いなかった。愛さなかった。
これが私が思う両雄の悲劇であり、すばらしさだ。
歴史上の人物間の出来事を思考することで、魂を天命を垣間見ることができる。
光
前回、ミケランジェロと信長の二人の話を書いた。
芸術家の読者からミケランジェロに関する記述の不正確さを指摘してもらった。
HPの一部をそれに沿って修正した。ありがたいことだ。
毎回、天命に関する相談がある、このような応援も大歓迎だ。
Hikaru753@mekiki.ne.jp
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